夫婦像

父が他界した。68歳。 後2週間で誕生日だった。

 

素直な気持ちとして、お疲れ様、元気でね!と言いたい

 

これは誤解されそうだから、色々記録しておく。

 

 

父はメーカーの管理職で、仕事人間だった。母は専業主婦。

小学生の頃から、父は単身赴任が多かった。母は私と姉と3人で暮らしていた。

隣の県だったから、休日は家族と出かけたりしていた。

父は一人っ子なので、テレビのチャンネル権は子供に譲らなかった。姉とよく喧嘩していた。

母と私は末っ子なので、どっちでも良かった。

 

姉の勉強教えてると、理解できなさすぎて次第に怒る。それが終了のサインだった。

至って普通の家庭なのかな、とおもう。

 

 

小4のとき、イギリスに転勤になった。

家族もついていった。この話はまたどこかで。

この頃は姉が全寮制の学校に通っていて、父母私の3人で暮らしていた。

夜遅く帰ってきて、休日も仕事。

日本に出張のときは、メモ帳いっぱいに欲しいものリストを作った。

Wiiプレステ3どっちがいい?と聞かれてWiiと答えた。

Wiiかよ、と言った父、Wii Sportsに家族の誰よりもハマってた。

 

こんな父だが、今思えば、結構な出世街道だったっぽい。

 

 

5年間の赴任で、中2の終わりに帰国になった。

父は、関西の方に転勤になった。また、単身赴任。

 

 

高1の終わり、父が55才の時突然父が仕事を辞めて同居することになった。

 

突然の大黒柱の倒壊。

ちょっと待ってよ。定年まであと5年じゃん。ここまできたら、もう少しじゃん。

 

「明日からパンの耳の生活になるのか…」と私はぼやいたよう。

(母が両家顔合わせでこの話をして、夫に毎回叱られる)

世間知らずの子供ながらに、これからどうなるんだ、、とは思っていた。

娘2人、私立高校だし。

バイトしなくていいの?と聞いた気もするけど、しなくていいと言われた。

 

 

ここから我が家は大黒柱不在になったが、結果として今までぬくぬく生きてこれた。

父がどれだけ稼いでいたのか知るのが怖いくらい。

 

大学受験が終わった高3の冬の終わり。

大事な話がある、と母に言われた。

 

父は、「若年性認知症」なんだと。

 

この時、特に驚きの感情はなかった。

2年間、父と同居していたからだと思う。

 

素直な感情としては「腑に落ちる」だった。

ってことは、潜在的な違和感があったんだと思う。

だから仕事も突然辞めてきたんだ。

 

 

母は、そんな父をずっと1人で支えてきたんだ。娘には言えないから。

後から聞いたが、最後は書類とかも書けなくて母が代理で手続きとかやってたみたい。

 

そうか、お父さん、

仕事が以前よりできなくなって喧嘩別れみたいに辞めてきたんだ。

 

大学生になったら、大学生活を謳歌した。

母1人で、父と認知症の祖母をささえていた。

私も姉も、予定キャンセルして介護手伝って、と言われたことはなかった。

 

 

今考えたら、なんも支えてなかったな。

 

母にも今更、何もできなくてごめんねと話した。

 

母はすごかった。

一緒にいてくれるだけで支えになってるよ、と言ってくれた。

 

 

私は何もしていないのになんでそんなこと言えるんだろう。

母に、おばあちゃんもいて2人の介護きつくない?とも聞いた。私はできないな、と。

無責任すぎるのは分かるけど、やはり親の介護って考えられなくて。

 

 

母は話してくれた。

お父さんは私たち子供が小さい時、母方の祖父が癌で体調を悪くしていた。

そんな時、進んで病院とかにいってくれて、家族を支えてくれた。

お父さんがそうしてくれたから、今度はお母さんがお返ししてるだけだよと。

 

母は、私がやってやってる!みたいな感じを一回も出したことがなかった。

お父さんのお返し、といつも言っていた。

 

 

私が大学生ごろの父の病状は、最初は徘徊するようになって連日探しに行ったりしていた。

デイサービスを利用するようになったけど、協調性がなくて日に日に送迎を断られ。

風呂トイレも1人で入れない。ご飯も1人で食べられない。

要介護は半年で3→4になったり。

 

祖母も認知症だったけど、10年で要介護2→3になるくらいなのに。

父の病状は、普通の認知症に比べて著しいスピードで悪くなっていく。

 

大学4年のとき、母の送迎で駅まで行ってたけど助手席の父がサイドブレーキ引いちゃうの怖くて、

初めて自分で運転した方がましだ、と思った。

 

 

この頃くらいに、ケアマネジャーさんと担当のお医者さんからもう自宅での介護は無理だ、と言われて特養に申し込んだ。

ここまで介護できる人はそうそういない、と言われたそう。

最初は60番代だった入居待ちも、半年もかからず入居ができた。

 

安心の反面、若年性認知症の進行の速さが恐ろしかった。

 

社会人になった年、父は特養に入った。

月に一度行ければ会いに行った。

母は毎日通っていたみたい。

 

2019年、父が誤飲性肺炎で危篤だと仕事中に連絡を受けた。

仕事を切り上げて向かった。

 

私の誕生日、病院に呼び出された。

延命処置しますか?という決断。

母から、父が元気だった頃延命はするな、と言われていたと聞いたこと、

また延命で元気な父に戻れるわけではないと思ったので、

家族合意の上で延命は希望しなかった。

 

この時は驚異的な回復力で、生死の淵を免れた。

とは言え、この時を境に寝たきりになってしまった。

 

この時初めて、死が近づいてるんだ、と思った

 

 

病院を転々として、ある程度回復したら特養に戻った。

 

 

しかし、2年後に同様の症状で病院に運ばれた。

一命は取り留めたけど、医療処置が必要になるらしい。

 

自宅に連れて帰って、最期を見届けるか、

看護師が常駐していない特養に戻るか、

医療処置が受けられる療養型病院か。

 

家族で、療養型病院を選んだ。

一年半、栄養は点滴だけでどんどん痩せ細っていく父。

ある日、危篤ですと連絡を受けて急いで向かった。

昼過ぎに、容体が回復したので帰って大丈夫と言われた。

2週間後、同様の連絡が来た。

違ったのは連絡内容。

もう亡くなった、とのことだった。

 

あんなに痩せ細っていた父も、

当たり前だけど、

生きているのと、いないのでは違うんだなと思った。

 

葬式に出れない父のいとこが顔を見に来てくれた。

俺にとっては、ヒーローみたいだったんだよ、と色々エピソードを話してくれた。

 

飼ってる猫の抜け毛を、旅支度で持たせてあげた。

葬式には、親戚をはじめいろんな人が来てくれた。

 

ずっと会えていなかった親友の人も。

父と母を出会わせてくれた、よく特養に来てくれてた同僚のも。

喧嘩別れしたと聞いていた会社の人もいた。

お父さん、よかったじゃん。

こんなにたくさんの人、集まってくれてるじゃん。

 

親友と会えなかったのは認知症の父に会う勇気がない、というのを聞いたけど、

別に薄情とか思わなくて、むしろそうだよね、分かる、と思う。

 

元気な父をよく知っているから、

そこからの変わりように驚くし

受け入れるのも時間がかかるんだろうね

 

家族はずっと見ていたから、

逆にこれ以上頑張れとか言えなかったし、

これだけ病状悪くなるのも見てる時間が長いから受け入れられたのであって。

もし周りの人が疎遠の間に変わっていたら受け入れられない、時間がかかるのは普通だと思うし、理解ができる。

 

同僚の方も、特養に家族の次に会いに来てくれた。

たくさん写真を持ってきてくれて、これは誰だよと話してあげたり。

おそらく、喧嘩別れした父と会社の人との橋渡しをしてくれてたのも、この人のおかげと思う。

会社の人も、きっと仕事を頑張ってた父を見てきたから、駆けつけてくれたんだと思う。

杖ついた威厳のありそうな人も、来てくれていたし。

 

本当にありがたいね、と葬式で家族で話していた。

家族は、最後まで笑顔だった。棺の蓋を閉める時、ばいばい、またね、って送り出してた。

私は泣きそうだったけど、耐えた。

 

きっと誠実に頑張ったから、たくさんの人が来てくれたんだよ。

 

 

13年間。

 

病気になって、できることができなくなって、きっと辛いこともたくさんあっただろうね。

 

お疲れ様。天国でゆっくり休んでね。

 

お父さんの凄さが、社会に出てわかります。

とても大きな大黒柱でした。

 

ありがとう。

 

葬式のときはバタバタでできなかったから、49日のとき家族で、手紙を書いた。

私はいろいろ、長々と書いた。

葬式で後悔の手紙を書いたから、そのぶん骨壷にはたくさん感謝を書いた手紙を入れた。

 

母の手紙をちらっと見た。

 

「お父さんと出会えて幸せでした。また、逢いましょう」

 

 

一言に全てがこもっていた。

私も、こんな夫婦になりたいな。

 

 

 

存在

夫のことが一瞬きらいになった。

だから、夫との思い出を振り返って、この感情を鎮めたいなと思う。

 

 

学生時代ずっと彼氏いない歴=年齢だった私は、そのことがずっとコンプレックスだった。

 

高校時代は、彼氏がほしいとずっと嘆いていた。

青春っぽいデートをしてみたい。

でも別にずっと一緒にいたいわけじゃない。

相悪いし、一緒のベッドで寝るなんか論外。

「都合のいい時に、彼氏彼女っぽく振る舞える関係」が言い当て妙かと思う。

話のネタ、ステータスとして、「彼氏」が欲しかった。 

 

そんな都合のいい「彼氏」は現れなかった。

 

 

 

大学生になっていつからか、自分には縁がないと諦めていた。

別に私の人生で、恋人という存在を知る必要はない、と諦めるようになった。

という話を留学中にした時、後悔するよ的なことを言われた。

 

当時は、知らないなら別にそれでいいんじゃん?って思ってた。

 

 

こんな私なので、結婚というのは夢物語だと思っていたので結婚願望もなかった。

漠然と、みんな結婚したら後悔するのかな、とかは思っていたけれど、あくまで消極的姿勢。

 

もちろん、結婚願望がなければ子供も欲しいと思わなかった。

痛いのは嫌いだから出産なんてなぜ好んでするのかが全く理解できなかった。

自分の人生は自分のために生きたい。

子供のためにとか考えられない。

 

結婚はしたくても、出産だけは死んでも嫌だった。

たくさん働いて、若くしてやり尽くしたと思えば死ねばいいな、と、学生時代は本気で思っていた

 

そんな中、新人研修で男女5人グループで仲良くなった。

もう記憶が曖昧だけど、私がすごく体調悪い日にその中の1人が個別連絡くれたところから始まったのかな。

この人が面談で研修早上がりしてたから、結果どうだった?と連絡してみたりしたな。

千葉駅で外国人に道を聞かれて、英語がわからないって電話してきたから、通訳したなぁ。

そこから通話するようになったのかな。

あの時、困った時に私を思い出してくれたことが、単純だけど嬉しかった。

 

 

あぁ、この人と付き合ったら楽しいだろうな。

 

 

そんな気持ちが日に日に増えていった。

 

新人研修は3ヶ月。この時点で、2ヶ月が経っていた。

この人とは会社も違うから、終わったらきっかけがないと会えない。

それはいやだな。

これからも、会えたらいいな。

 

この日も華金で仲良いメンバーで研修後飲みに行った。

この辺りの時期に、現場が遠くなるので、私は一人暮らしを始めた。

 

ここで私は大勝負に出た。

酒の勢いで、やっちまおう大作戦。

 

「引っ越したからうちで二次会しようよ(笑)」と提案した。

もし断られても、冗談だよ、と言えるよう予防線をつけて。

 

彼といると本当に話も合うし、

居心地が良くて、

この人ならワンナイトでも後悔ないや、

と思えるくらいの信頼はしていた。

 

 

結果として、この人を信頼して問題なかった。

 

この人と出会って付き合っていくうちに、彼氏とか恋人というものを知った。

 

この人の腕枕は落ち着く、落ち着きすぎて睡眠成分が分泌されてるのかと思うくらい。

 

付き合ってた頃は、毎日長電話していた。

飲み会ではしゃぎすぎて落胆して帰ってくるので、毎回そんなおとなしいキャラじゃないとなだめていた。

毎日、この人と過ごすこの時間が好きだった。

 

ここまでで、高校時代に思い浮かべていた「彼氏」とは、全然別物なんだと。

 

この人と付き合って、毎日すごく楽しい。

安心する。

 

ずっと一緒に過ごせればいいな。

 

こんな感情が芽生えてきた。

 

大学時代の「後悔するよ」も、この人に出会えて知った、この感情なんだと思えた。

やっと、答え合わせができたよ。

 

 

この人とであって変わったこと、新しく出会えた感情はたくさんある。

 

子供に対する価値感もその一つ。

 

私はもともと、お腹を痛めたくないし、自分の遺伝子を残したいとおもわなかった。

子供が苦手なので、欲しくはなかった。

女性のほうが子供が欲しい願望が強いというけど、みんなそんなに遺伝子に自信があるんだ、いいなぁ、と思っていた。

なんと、性格の悪い。

 

 

そんな私と反対に、彼はずっと子供が欲しいと言っていた。

疑問だった。なんで欲しいの?と聞いた。

彼は興味がある、と答えた。

 

興味?そんな気持ちなんだ?

子育てで人生の20年くらいを奪われるのに?

最初はそう思っていた。

冒頭にも書いたが、自分の人生は自分のためな使いたいという考えしかなかった。

 

この人の考えに触れて、街で子連れを見て、これが家族なのかな、と思うようになった。

大好きで大切なこの人のために、子供との未来を描くのもありなのかな。

 

遺伝子に自信はない。

でも、興味だけでも子供を作る理由にはなるんじゃない?

世の中の人、実はそんなもんなんじゃない?

考えすぎなくても、いいんじゃない?

そんな気持ちになってきた。

 

「欲しい」までは思わない。

ただ、これでもだいぶ前向きになったと思っている。

 

 

この人と出会って、

 

 

 

お互いそう思っていたようで、恋人から夫婦になった。

 

 

一年が経った。

 

 

 

 

10月の初め、生理が来たと思ったら血が止まった。数日後、またちょろっと出血した。

変だな、と思い妊娠検査薬をAmazonで注文した。

 

陽性のところに、くっきりと線が入っていた。

 

2人とも在宅で仕事していて、夫はパチンコの動画を見ていた。

結果を見せたら、すぐに動画を止めて産婦人科を調べて予約していた。

 

夫はずっと、子供が欲しいと言っていた。

泣いて喜んでくれるかな、と思ったけど思ったより喜んでくれなかった。

聞いたら、嬉しさもあったけど不安や私の体調の心配の方が大きかったらしい。

 

夫は協力的だった。

当事者意識は私よりもあった。

ブロッコリーとほうれん草が葉酸取れるらしい、と毎日ブロッコリー食べさせられた。

ミキサー買って、スープを作った。

妊娠中の食べ物は生物がダメだが、

妊娠判定出るまでにいくらを食べ尽くそう、と言ったら叱られた。

判定出てないからいいじゃん。

 

夫の運転で産婦人科にいったり

意外だったのは、検査薬陽性だったら産科扱いになることだった。

病院であたらめて検査しないんだ、、

エコーで胎嚢が確認できたから、妊娠っぽい。

でもここで流産する確率が一番高いみたいだから期待しすぎず。

 

2週間後、胎児っぽい霞のようなシルエットも確認できた。

呼吸も弱いけど確認できますね、と。

妊娠かぁ、と現実味になってきた。

 

母になれるかなという不安と、夫に子供という贈り物ができるという嬉しさと。

未来が不安で涙も出てきた。

妊娠は、つねに不安との戦いだった。

 

 

7週くらいに、出血があったので、病院に連絡した。

すぐにきてくださいと言われて、しごとちゅだが夫に運転してもらった。

 

出血は、そこまで問題はなかった。

 

でも、呼吸が確認できなかった。

稽留流産かもしれない、と言われた。

 

いつもの医者じゃなかったから、この人の判定ミスじゃないか、という気持ちもあった。

昨日まで母になる不安で涙が出てたけど、今度はいなくなるの?という不安の涙が出てきた。

流産のほとんどは染色体異常らしく、なす術はない。

わかっていても、自分の体内にいると、私のせいだと思ってしまった。

毎日夜になると泣いていて、夫になぐさめてもらっていた。

 

夫は、ダメだったならしょうがないねと。

次に進もうと。

私のせいじゃないよ、と言ってくれた。

 

 

次の週結果を聞きにいった。

結果次第で夕飯は焼肉か寿司の2択になった。

結果は、寿司だった。

パルコの寿司屋さんで、値段気にせず食べた。私だけで五千円。一貫500円の特選生ウニ2個食べたし、いくらとのどぐろもたべた。夫は安めのネタが好きなので安上がりだった。

 

妊娠を伝えていたので、結果を母に電話した。

ごめん、と伝えると謝ることはないよと。

 

夫といれば、どんなことでも乗り越えられるよ、大丈夫だよ、と。

 

ずるいよ。こんなん泣くやろ。

平然を装いたくて、仕事のメール見ながら落ち着かせようとしたけど、無理だった。

 

 

稽留流産だと、いつ出てくるかわからないので、手術したいと伝えた。

昨日、朝10時頃総合病院へ紹介状持っていった。

診察して、手術のための検査して、次の日に手術になった。入院の予約とか会計して、もろもろ2時くらい。

夫に迎えを頼んで、トイレ行ったら血が止まらない。

これは、明日まで持つかなぁ。。と漠然とした不安と腹痛に駆られて、ロータリーで待っていたらどんどん出血が増えた。

 

まて、尋常じゃない。とりあえず、産婦人科行ってこよう。

受付で事情を話し、トイレに駆け込んだら文字通り出血大サービス。

外で私を呼んでいる。出たいけどとりあえず綺麗にしなきゃ。

ある程度綺麗にして、トイレから出て速攻診察室に連れて行かれた。

 

トイレで概ね流れたが、血まみれのまま処置してもらい、出血量が多いので点滴措置になった。

もう、手術は必要ないですね、と。

点滴で移動するとめちゃ見られる見られる。

 

 

1時間ほどぼーっとしていた。

唯一、妊娠を話していた友人からちょうど「体調どう?」と連絡があった。

稽留流産だったことは伝えていなくて、諸々終わってから話そうと思っていた。

今日の怒涛の出来事を話した。

 

気は使わなくていいからね、と送ったら

気は使ってない。でも大好きだから心配はしてる、ときた。

 

私は素敵な友人と出会えたな。

彼女は言葉選びが本当に素晴らしくて、そうそう、私はこれが伝えたいの!をちゃんと言葉にできる人だ。

本当になんでも言えるし信頼できる。

 

4時半ごろ、諸々の出来事が終わってやっと帰路に着いた。

本日に限り多忙な夫に3往復もさせてしまった。

 

流産とわかって2週半くらい。

立ち直った、つもりだった。

 

流産という結果は分かっていても、いざあの瞬間、体内から出てくると、やっぱりショックだった。

 

また泣いた。

 

こんな日に限って、夫は友人とゲームしていた。

いつもならいいけど、こんな日だぞ。

 

私が泣いたら、もう立ち直ったんじゃないの?次に行こうよ、と言われた。

 

わかってる。

結果は2週前にでてる。

 

でも、それとこれとは別。

このへん、わかってくれないんだ。

 

前、流産した後の夫の対応で離婚したとアベマでみたけど、なんか気持ちわかるかもと思った。

 

わかってくれなかったから、ショックだった。

夫が嫌いになりそう。

 

 

だけど、わたしの考え方が悪いのは、立ち直れないのが悪いから。

 

 

付き合う前、この人と一緒にいたら楽しいだろうなと思った。

 

その直感はただしいよ。この気持ちを忘れないでね、わたし。

夫のよかったことを書き出して、今日は寝ます。

はじめての転職活動

こんにちは。
はじめての転職活動、ひっそりはじめてひっそり終えました。ので、いろいろ書き留めておきます。転職活動ももちろん、一社目のことも書いておこうかなと。

○1社目
新卒で入社してSEやってました。SESといって派遣SEみたいなもの。現場は一回も変わらずプロジェクトは一回変わりました。
大学は国際系の学部なもので特にSEを目指してたわけではなく、大手がことごとくダメで春から秋まで就活してやっと受かった。。という理由です。夏くらいからは本腰いれずに諦め半分遊びながら就活してました。つらかったーーー
転職活動中に意外となんでSEになったの?って聞かれたことも多かったので、ものづくりしたい!って答えてました。
研修してから現場で仕事してて、最初はダメダメだったけど最後の方はありがたいことにそれなりに評価されてたようです。なんかこう、自分で考えて行動できるとか意見言えるとか、そんな感じだった気がする。。自分はできないできないって思ってたからびっくりしました。現場の人とご飯行ったり、ディズニーチケット譲ってもらったりと可愛がってもらえてました。
ただ、プロジェクトがキツくて。休日もある時あるし定時8時までって思われてんのか?っていう不満もムクムク溜まってまして。有給の日に連絡きたので沸点超えてやめるんだ!って勢いのまま言いました。引き止められたけど、ここで撤回したらこれからもやめるやめる詐欺だと思われるって思い、辞める決意をしました。

○転職活動
本題に入ります(長い)
いろんなサイトで在職中に活動しよう!って書かれてはいるものの、有休消化期間(2ヶ月)でやろうと決めてました。円満?退社なのでありがたく新しく付与された有給使わせてもらいました。ごめんなさい、戻る気はないんですけど。
これは個人的だけど、結果有給期間で良かった。辞める時ってやめる!今の状況クソだ!しか思えなくて、転職活動に前向きに取り組めなかった気がしたので、辞めて時間ができてからゆっくり考えられたのはよかった。

転職活動において応募基準はこんな感じで決めてました。
・年収  あげたいけど今以上ならいいや
・勤務地 プロジェクト先という言葉は信用しない。絶対自社。できればリモートがいい
・完全週休2日制は絶対
・退職金 あればいいな
・職種  経験活かせればいいなーくらいなので全く別でもよい
書くと結構ぼやっとしてる。まあこれくらいゆるいからやりやすかったのかな?とも思う。
最初は社内SEかなと思ってたし、実際応募のほとんどは社内SEでした。戦績はこんな感じ。

応募:28

一次:14

二次:6

内定:3社


結論、短期集中で1か月ほどで決まりました!わーい。内定3社も出ると思わなんだ。


応募段階、一次面接あたりではスキル不足理由でお祈りされたのがほとんどでした。久々にSPI受けて、はじめてのところは相当ひどい結果だったんだろうなと。。(笑) ここら辺のお祈りが一番メンタル削られましたね。面接がトラウマ化しそうでした。


二次面接がラストのところもそれなりにありました。落ちたのはこう方向性の不一致で辞めそうだから、みたいな感じでした。お見送りの理由にこだわりが〜って書かれたのちょっと不快で(笑) まぁ面接の感じからも合わなそうだなとは感じてたし!とは思ってました。

最終まで残ったり内定もらったのは全部外資で、日系企業多分ほんとに合わないんだろうなって改めて感じました。そりゃ新卒のとき失敗するわ〜〜 メンタル強がらなきゃ就活やってらんねぇ!!精神なので精一杯強がってます。


内定は1つ目は第二志望郡の会社さんでした。最初コーディングテストで三分の一しか解けず、成績悪かったら面接やめますって書いてあったので死んだ、、と思ってたら面接。面接もうまく行った気がしなくて早くお祈りくれ〜って思ったら内定でました。

第二志望郡とか書いたけど、落ちたって思ってたからアウトオブ眼中だったんですよ。内定でて、第一志望ダメだったらここにしよう、という気持ちでした。いまの会社辞めて後戻りできないもんで。


2つ目は第一志望の会社でした。第一志望は少し毛色が違う分野だったので、まぁダメだったら時期尚早ってことで、という気持ちで挑みました。最終もうまく話せた気はしなかったのでどうかなぁと思ってたら内定。ありがとうございます。ここで働かせていただきます!


ちなみに3社目は第一志望のグループ会社でした。すごく迷ったけど、やはり第一志望受かったら第一にいくよね、という感じで決めました。



○面接とか

ほぼオンライン面接だったので、カンペ用意できたのはありがたかった。大体くる質問で考えてたのは以下。

・自己紹介と職務経歴

 合わせていうパターンも結構多くて、繋げてカンペ用意してた

・自己PR

 職務経歴書に書いたから?かそんな聞かれなかった

・転職理由

 もっとユーザーに近い仕事がしたい!を企業と職種によって言い換えてた

・志望理由

 企業研究あるのみ。他は使いまわせるけどここはHPみてちゃんと変えてた。職種とその企業の理由を織り交ぜて考えてた。企業理念に合わせていくと、それっぽいの作れる気がする。



とまぁはじめての転職活動、1か月お疲れでした。終わってみたらすんなり決まってよかった。ただ、退職と入社がひと月開いちゃうけど、まぁいっかって思ってます。もともともっとニートしててもいいかくらいには思ってたので。というわけで、次の仕事も頑張ります。

次転職するときのメモがわりに残す。