夫婦像

父が他界した。68歳。 後2週間で誕生日だった。

 

素直な気持ちとして、お疲れ様、元気でね!と言いたい

 

これは誤解されそうだから、色々記録しておく。

 

 

父はメーカーの管理職で、仕事人間だった。母は専業主婦。

小学生の頃から、父は単身赴任が多かった。母は私と姉と3人で暮らしていた。

隣の県だったから、休日は家族と出かけたりしていた。

父は一人っ子なので、テレビのチャンネル権は子供に譲らなかった。姉とよく喧嘩していた。

母と私は末っ子なので、どっちでも良かった。

 

姉の勉強教えてると、理解できなさすぎて次第に怒る。それが終了のサインだった。

至って普通の家庭なのかな、とおもう。

 

 

小4のとき、イギリスに転勤になった。

家族もついていった。この話はまたどこかで。

この頃は姉が全寮制の学校に通っていて、父母私の3人で暮らしていた。

夜遅く帰ってきて、休日も仕事。

日本に出張のときは、メモ帳いっぱいに欲しいものリストを作った。

Wiiプレステ3どっちがいい?と聞かれてWiiと答えた。

Wiiかよ、と言った父、Wii Sportsに家族の誰よりもハマってた。

 

こんな父だが、今思えば、結構な出世街道だったっぽい。

 

 

5年間の赴任で、中2の終わりに帰国になった。

父は、関西の方に転勤になった。また、単身赴任。

 

 

高1の終わり、父が55才の時突然父が仕事を辞めて同居することになった。

 

突然の大黒柱の倒壊。

ちょっと待ってよ。定年まであと5年じゃん。ここまできたら、もう少しじゃん。

 

「明日からパンの耳の生活になるのか…」と私はぼやいたよう。

(母が両家顔合わせでこの話をして、夫に毎回叱られる)

世間知らずの子供ながらに、これからどうなるんだ、、とは思っていた。

娘2人、私立高校だし。

バイトしなくていいの?と聞いた気もするけど、しなくていいと言われた。

 

 

ここから我が家は大黒柱不在になったが、結果として今までぬくぬく生きてこれた。

父がどれだけ稼いでいたのか知るのが怖いくらい。

 

大学受験が終わった高3の冬の終わり。

大事な話がある、と母に言われた。

 

父は、「若年性認知症」なんだと。

 

この時、特に驚きの感情はなかった。

2年間、父と同居していたからだと思う。

 

素直な感情としては「腑に落ちる」だった。

ってことは、潜在的な違和感があったんだと思う。

だから仕事も突然辞めてきたんだ。

 

 

母は、そんな父をずっと1人で支えてきたんだ。娘には言えないから。

後から聞いたが、最後は書類とかも書けなくて母が代理で手続きとかやってたみたい。

 

そうか、お父さん、

仕事が以前よりできなくなって喧嘩別れみたいに辞めてきたんだ。

 

大学生になったら、大学生活を謳歌した。

母1人で、父と認知症の祖母をささえていた。

私も姉も、予定キャンセルして介護手伝って、と言われたことはなかった。

 

 

今考えたら、なんも支えてなかったな。

 

母にも今更、何もできなくてごめんねと話した。

 

母はすごかった。

一緒にいてくれるだけで支えになってるよ、と言ってくれた。

 

 

私は何もしていないのになんでそんなこと言えるんだろう。

母に、おばあちゃんもいて2人の介護きつくない?とも聞いた。私はできないな、と。

無責任すぎるのは分かるけど、やはり親の介護って考えられなくて。

 

 

母は話してくれた。

お父さんは私たち子供が小さい時、母方の祖父が癌で体調を悪くしていた。

そんな時、進んで病院とかにいってくれて、家族を支えてくれた。

お父さんがそうしてくれたから、今度はお母さんがお返ししてるだけだよと。

 

母は、私がやってやってる!みたいな感じを一回も出したことがなかった。

お父さんのお返し、といつも言っていた。

 

 

私が大学生ごろの父の病状は、最初は徘徊するようになって連日探しに行ったりしていた。

デイサービスを利用するようになったけど、協調性がなくて日に日に送迎を断られ。

風呂トイレも1人で入れない。ご飯も1人で食べられない。

要介護は半年で3→4になったり。

 

祖母も認知症だったけど、10年で要介護2→3になるくらいなのに。

父の病状は、普通の認知症に比べて著しいスピードで悪くなっていく。

 

大学4年のとき、母の送迎で駅まで行ってたけど助手席の父がサイドブレーキ引いちゃうの怖くて、

初めて自分で運転した方がましだ、と思った。

 

 

この頃くらいに、ケアマネジャーさんと担当のお医者さんからもう自宅での介護は無理だ、と言われて特養に申し込んだ。

ここまで介護できる人はそうそういない、と言われたそう。

最初は60番代だった入居待ちも、半年もかからず入居ができた。

 

安心の反面、若年性認知症の進行の速さが恐ろしかった。

 

社会人になった年、父は特養に入った。

月に一度行ければ会いに行った。

母は毎日通っていたみたい。

 

2019年、父が誤飲性肺炎で危篤だと仕事中に連絡を受けた。

仕事を切り上げて向かった。

 

私の誕生日、病院に呼び出された。

延命処置しますか?という決断。

母から、父が元気だった頃延命はするな、と言われていたと聞いたこと、

また延命で元気な父に戻れるわけではないと思ったので、

家族合意の上で延命は希望しなかった。

 

この時は驚異的な回復力で、生死の淵を免れた。

とは言え、この時を境に寝たきりになってしまった。

 

この時初めて、死が近づいてるんだ、と思った

 

 

病院を転々として、ある程度回復したら特養に戻った。

 

 

しかし、2年後に同様の症状で病院に運ばれた。

一命は取り留めたけど、医療処置が必要になるらしい。

 

自宅に連れて帰って、最期を見届けるか、

看護師が常駐していない特養に戻るか、

医療処置が受けられる療養型病院か。

 

家族で、療養型病院を選んだ。

一年半、栄養は点滴だけでどんどん痩せ細っていく父。

ある日、危篤ですと連絡を受けて急いで向かった。

昼過ぎに、容体が回復したので帰って大丈夫と言われた。

2週間後、同様の連絡が来た。

違ったのは連絡内容。

もう亡くなった、とのことだった。

 

あんなに痩せ細っていた父も、

当たり前だけど、

生きているのと、いないのでは違うんだなと思った。

 

葬式に出れない父のいとこが顔を見に来てくれた。

俺にとっては、ヒーローみたいだったんだよ、と色々エピソードを話してくれた。

 

飼ってる猫の抜け毛を、旅支度で持たせてあげた。

葬式には、親戚をはじめいろんな人が来てくれた。

 

ずっと会えていなかった親友の人も。

父と母を出会わせてくれた、よく特養に来てくれてた同僚のも。

喧嘩別れしたと聞いていた会社の人もいた。

お父さん、よかったじゃん。

こんなにたくさんの人、集まってくれてるじゃん。

 

親友と会えなかったのは認知症の父に会う勇気がない、というのを聞いたけど、

別に薄情とか思わなくて、むしろそうだよね、分かる、と思う。

 

元気な父をよく知っているから、

そこからの変わりように驚くし

受け入れるのも時間がかかるんだろうね

 

家族はずっと見ていたから、

逆にこれ以上頑張れとか言えなかったし、

これだけ病状悪くなるのも見てる時間が長いから受け入れられたのであって。

もし周りの人が疎遠の間に変わっていたら受け入れられない、時間がかかるのは普通だと思うし、理解ができる。

 

同僚の方も、特養に家族の次に会いに来てくれた。

たくさん写真を持ってきてくれて、これは誰だよと話してあげたり。

おそらく、喧嘩別れした父と会社の人との橋渡しをしてくれてたのも、この人のおかげと思う。

会社の人も、きっと仕事を頑張ってた父を見てきたから、駆けつけてくれたんだと思う。

杖ついた威厳のありそうな人も、来てくれていたし。

 

本当にありがたいね、と葬式で家族で話していた。

家族は、最後まで笑顔だった。棺の蓋を閉める時、ばいばい、またね、って送り出してた。

私は泣きそうだったけど、耐えた。

 

きっと誠実に頑張ったから、たくさんの人が来てくれたんだよ。

 

 

13年間。

 

病気になって、できることができなくなって、きっと辛いこともたくさんあっただろうね。

 

お疲れ様。天国でゆっくり休んでね。

 

お父さんの凄さが、社会に出てわかります。

とても大きな大黒柱でした。

 

ありがとう。

 

葬式のときはバタバタでできなかったから、49日のとき家族で、手紙を書いた。

私はいろいろ、長々と書いた。

葬式で後悔の手紙を書いたから、そのぶん骨壷にはたくさん感謝を書いた手紙を入れた。

 

母の手紙をちらっと見た。

 

「お父さんと出会えて幸せでした。また、逢いましょう」

 

 

一言に全てがこもっていた。

私も、こんな夫婦になりたいな。